そのテレマンの名を冠し60年にわたり大阪を本拠地に活躍している楽団が「日本テレマン協会」。室内オーケストラと合唱団を備え、その名はヨーロッパにも鳴り渡るほど。
楽団の創立者であり総帥でもある延原武春さんは、かねてから「中之島をウィーンに!」と提唱されています。延原さんに、楽団と音楽にまつわる興味深いお話を伺ってきました。
(トップの写真および★マークは、日本テレマン協会提供)
■1963年3月、大学に見つからないように名古屋で初演
-延原さんが、日本テレマン協会を設立された経緯について、お教えください。
「私は大阪音楽大学の付属高校に通っていました。3年生の時に耳にしたテレマンという作曲家、さらにはバロック期の音楽についてとても興味を惹かれました。当時、私以外に3人ほど同好の士がいて、彼らと研究会を行うなどしていました。それが最初ですね」
-その頃、日本では作曲家テレマンについて、どれほどの知名度があったのでしょうか。
「テレマンなんて誰も知りませんよ。バロックといえばバッハ、ヘンデル、ヴィヴァルディ。だから当然、日本語の文献などもありません。洋書と格闘しながら何とか研究していったのです。それからしばらくして、その仲間とぼちぼち演奏に取り組んでいったという次第です」
-バロックの音楽家といえば、やはりバッハが思い浮かびます。
「1960年代以前から、なぜか『バッハは偉い!』という感じになっていましたね。しかしテレマンはいわばバッハのお兄さん的な存在。いろいろ文献を読むと、バッハのお子さんの名付け親になったりしています。テレマンは生涯に多くの曲を作った大作曲家で、バッハやヘンデルとも密接な人間関係を築いています」
-お仲間と楽団を結成し演奏活動を行ったのが、現在の日本テレマン協会の第一歩ということでしょうか。
「当時、大阪音楽大学は学生が学外で演奏するのを禁じていました。ポピュラーバンドで演奏しているのが見つかって、退学になった者もいます。それで『大学の目も届きにくいだろう』ということで、1963年3月に名古屋で行ったのが最初です。
日本テレマン協会の創立記念日は、その日にしています。2023年で、ちょうど60年です」
■テレマンが目指した「人を喜ばせる音楽」を、自分たちも。
-延原さんが、ご自身の楽団に「テレマン」という名を冠しているということは、テレマンをかなり尊敬されているということでしょうか。
「尊敬というより私自身、テレマンが一番好きでしたから。バッハをやるにしても、ヴィヴァルディをやるにしても、ちょっと窮屈な感じがしてね(笑)。
私はオーボエを演奏していて、テレマンの曲が一番ステキやなぁと思ったんです。それに『日本でテレマンの名前を広めてやろう』という気持ちもありました」
ゲオルク・フィリップ・テレマン(Georg Philipp Telemann)
1681年~1767年。
クラシック史上、最も多くの曲を作った作曲家とされる。
ヘンデルとはライプツィヒ大学時代からの友人。バッハが死去した時には、彼の業績を称える追悼の言葉を贈っている。
-バッハやヴィヴァルディが窮屈というのは?
「テレマンは生涯で5000曲ほど作っており、世間に受け入れられやすい曲や演奏しやすい曲がたくさんありました。バッハは演奏しにくい曲が多くて(笑)。
それにテレマンには3名とか4名とか、小さな場所で演奏できるような曲も多かった」
-テレマンの方がわかりやすく、より大衆的だったということでしょうか。
「ある人に『テレマンって、どんな人ですか?』と聞いたら、『日本でいえば、古賀政男のような人』だと・・・今やご存じない方も多いでしょうけれど(笑)。
テレマンの自叙伝には、『外へ出てごらん。すると大道芸人がいろんな面白い音楽をやっているよ』といったことが書いてあります。その時代のポピュラーなリズムなどをどんどん取り入れて、先取の気性を持っていた人だったと思います」
-あまり知られていませんが、偉大な音楽家だったのですね。
「『人が喜ぶから、作曲をするんだ』というのがテレマンの信条で、長寿だったこともあり本当に多くの曲を作曲しています。『人を喜ばせる』という考え方については、私も大いに影響を受けていますし、我々日本テレマン協会の中にも息づいています」
■東ドイツをはじめ国内外での活動で、サントリー音楽賞を受賞
-大学に見つからないように始めた演奏活動ですが、それが今や60年です!
「最初は3人ぐらいでささやかにやっていたものが、バロック好きな音楽家が集まってきてメンバーも増え、室内オーケストラ(テレマン室内オーケストラ)や合唱団(テレマン合唱団)も作ろうという話になったのが前の大阪万博の頃、1970年前後です。
創立60周年といっても、1970年頃までは準備期間のようなもの。だから本格的な活動は50年ほどだと思っています。
ともあれ楽団としてなんとかしなければと、マンスリーコンサートや定期演奏会を始めたりして、それが今やマンスリーコンサートは538回、定期演奏会は301回を数えるようになりました」(回数はいずれも2023年12月14日時点)
-マンスリーコンサートが538回、定期演奏会301回というのは、本当にすごいことです。定例のイベントとして定着できた理由は何でしょうか。
「ちょうど時代もよかったと思います。
それまでクラシックといえば大編成のオーケストラやオペラが中心でした。それが1960年代後半にイタリアの『イ・ムジチ合奏団』がヴィヴァルディの『四季』を室内オーケストラで演奏し、フランスやドイツで人気に火が付いたんです。我々も影響されましたし、国内でも室内楽が注目されはじめました。
それに当時は、私より少し若い『団塊の世代』が新しい価値観を持ち込んだ時代でもあり、その世代が私たちのやろうとしている音楽に賛同してくれたのも大きかった。
1970年代以降は百貨店などの企業が、文化事業の一環として演奏会を開催したりホールを作ったりするなど、クラシックがぐっと身近な存在になっていったように思います」
-とはいえ室内オーケストラや合唱団など多くのメンバーを抱える上で、ご苦労もあったのではないでしょうか。
「苦労ということは、あまり感じなかったですね。だいたい1980年代は、ほとんど外国で演奏していました。特に東ドイツ(当時)には、ほぼ毎年行っていました。私一人で行って地元の楽団を指揮することもあったし、楽団と行って現地で演奏会もやりました。
そうした活動を続けるうちに、東ドイツで開催された『J.S.バッハ生誕300年記念国際音楽祭』に日本の楽団としては唯一招かれ、室内オーケストラと合唱団を率いて演奏しました。それが日本でも認められて、1985年にサントリー音楽賞を受賞しました」
-現在、マンスリーコンサートや定期演奏会以外に、どのような活動を行っておられますか。
「いろんなアイデアを出し合って、楽しいイベントを企画しています。
たとえばテレマンは『食卓の音楽』というものも作曲しています。要するに食事の際のBGMですね。そこであるホテルと協力して、18世紀の貴族の晩餐会を再現するコンサートを行いました。バロックの演奏を聴きながら、バロック時代のレシピによる料理を楽しんでいただくというイベントです。これ以外にも、いろいろありますよ」
-当時を感じることができるステキなイベントですね。ぜひ行ってみたいです。
「我々から見たら『聴く人』、お客さまから見たら『演奏者』の、お互いの顔が見える音楽をやりたい。ステージからではなく、お客さまと同じ目線でという思いからです。
18世紀は貴族たちが食事してお酒を飲んで、いい気分になっている目の前で演奏していました。格式張る必要はなく、お客さまに喜んでいただければいいのです」
■ローカルだからこそ、育める文化がある。それを大事にしたい。
-延原さんと日本テレマン協会は、これまで60年間、ずっと大阪を拠点にされています。東京へ移る予定はなかったのでしょうか?
「思ったことはなかったですね。でも正直にいうと『東京に来ませんか?』というお誘いはありました。
東京は世界的な大都市です。パリ、ベルリン、ロンドンなどの大都市と同じです。我々がヨーロッパの都市に行って演奏するように、東京も同じように演奏に行く場所であればいいんです。住んでしまうと、面白くない(笑)。
ドイツには『Aオケ』『Bオケ』というのがあります。『Bオケ』は簡単にいえば、お昼休みにご飯を自宅に食べに帰れるような、ごく近くに住んでいる楽団員で構成されているオーケストラのこと。要するにローカル・オーケストラなんですが、そういう楽団の方が演奏技術は別にして面白い。それぞれのローカルにカラーがあって、それが文化というものを形作っていることがわかるんです」
-大阪ならではの文化、カラーを大切にするということですね。
「日本テレマン協会は関西、特に大阪の楽団として大阪の人に育ててもらったと思っています。
それに元々、関西には華やかなクラシック文化がありました。演奏できるホールが、東京よりたくさんあったのです。むしろ1960年代までは関西の方が盛んだったように思います。その当時のクラシック専門雑誌には、東京の記事と関西の記事が半々ぐらい載っていましたからね。それが今は・・・」
-最近は東京一極集中のようになってしまっています。
「バッハの『マタイ受難曲』は、18世紀の初演以来、長らく忘れられていました。それを19世紀になってメンデルスゾーンが復活上演し、バッハが再評価されました。その後『マタイ受難曲』はいろんな音楽家によって演奏されています。
我々はそれを日本で初めて、メンデルスゾーンが上演した時そのままの形で上演したんです。その時、東京のジャーナリストが『大阪でも日本初演ができるというのは、ステキなことですね』といいました。それは『初演は東京でするのが当たり前』という認識の裏返しからの発言ですよね。そういうところを変えていかねば」
■中之島に来て欲しい。そして音楽を演奏していたら、聴いて欲しい。
-延原さんはかねがね「中之島をウィーンに」と提唱されていますが、そのお気持ちをお聞かせください。
「大阪の音楽文化は、常に中之島から始まっていました。まさに文化の中心です。その周囲には新聞社の社屋があり、どこにもホールが備えられていました。そんな中之島を、音楽の都であるウィーンのようなところにしたいと思っています」
-そうなるためには、中之島には何が必要だとお考えですか?
「音楽を奏でる場所として考えると、我々日本テレマン協会は古い建物などバロックの時代、18世紀や19世紀を感じさせる雰囲気のある場所で演奏したいと考えています。
ただ音楽界全体のことを考えると、中之島にはもうひとつかふたつ、音楽ホールがあればいいのになぁと思います。大阪城ホールのようなものから小ホールまで、いろんなホールがあれば、若手にも活躍の場が広がるでしょう」
-最近、美術館は増えてきていますが、確かに音楽用ホールはもう少し欲しいですね。
「前のフェスティバルホールには小さいホール(リサイタルホール)もありましたが、新築されて無くなりました。それが残念ですね。
美術の方は、今すごく頑張っていますよね。だから我々としては美術館に来た人に音楽を聴いてもらう機会を作るなど、美術館と楽団がお互いに手を取り合って進んでいかねばならないと考えています」
-延原さんご自身にとって、中之島には何か「思い入れ」のようなものはありますか?
「すごくありますよ!昔々、私が小学生の頃、親戚が北新地でお茶屋をやっていて、お茶屋から中之島が見えました。天神祭など、よく見ていました。
それからモーターボートに乗せてもらって遊んだことなど、思い出がいっぱいあります。当時は裁判所も古くて立派な建物で、ちょっとロンドンやパリを思わせる街でしたね」
-「日本テレマン協会」が率先して、中之島を本当にウィーンにしていただけたら。
「日本テレマン協会は創立60周年で、一番いい時代を迎えていると思います。演奏者の平均年齢は40代半ばで、やっと自分が思い描くような演奏ができるようになってきました。それに2024年には、新しい事務所も完成します。
『もうこれ以上、いうことはない』という演奏ができるのではないか、そう自負しています」
-最後になりますが、「中之島スタイル」をご覧の方に、何かメッセージをお願いします。
「おそらく読者の方は、中之島を愛している人が多いのではないかと思います。その理由は、景色がキレイだとか美術館がいっぱいあるからとか、いろいろあると思います。どんな理由であれ、中之島に来て欲しい。その時、演奏会などをやっていたら、ちょっと聴いて欲しい。
中之島は大阪文化の象徴です。みんなで大切にしていきましょう」
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