まず初めに向かったのは大阪天満宮。ここは、古典落語「初天神」の舞台となりました。「初天神」の“天神”とは、菅原道真公のこと。その道真公が祀られている天満宮の新年最初のご縁日(1月25日)だから「初天神」というわけです。
「初天神」
天神さまへお参りに出掛けようとする熊。その姿を見た息子の寅が、一緒に連れて行ってくれとせがみます。あんまり騒ぐので、仕方なく連れて行くことに。ところが寅、出掛ける前に何も買わないと約束したのに駄々をこね、結局、露店で飴やダンゴを買ってもらいます。お参りを済ませ、今度は親子で凧あげをすることになりました。どこまでも高くあがる凧に、今度は父親の方が夢中に。その様子を見た寅は・・・。
お正月によく披露されるというこの噺。当時の天神さんも、たくさんの参拝客で賑わっていたのでしょうね。現在、大阪天満宮の北側には関西唯一の落語の定席天満天神繁昌亭がオープンし、ますます活気にあふれる一帯となっています。
「千両みかん」
季節は夏。ミカン欲しさに病に臥した船場の若旦那。ミカンを見つけ出さなければ死刑と大旦那に脅され、番頭は市中を必死に探します。奇跡的に見つかったミカンですが、商売人の言い値はなんと千両。背に腹は変えられぬと大旦那はそれを買い与え、若旦那は快復します。そして番頭は、残りのミカンを持って雲隠れ・・・。
さて、番頭さんがミカンを買いに出かけたのが天満青物市場。現在の南天満公園の位置にありました。公園の一角には市場跡の碑が建てられています。堂島の米市場、雑喉場の魚市場と並んで三大市場のひとつとされ、青物(果物・野菜)の取扱を独占したこの市場は、大阪市中央卸売市場の設立(昭和6/1931年)に伴う廃止まで栄えていたそうです。
ここからは堂島川に沿って西へ進み、難波橋を目指します。橋のたもとにライオンが鎮座することから“ライオン橋”の別名で親しまれるこの橋も、愉快な落語の舞台となっています。
「遊山船」
ある夏、花火見物のため難波橋に来た喜六と清八。大川をゆく遊山船を冷やかします。そこへやってきたのが、錨(いかり)模様の浴衣を着た賑やかな稽古屋連中。清八が「さても綺麗な錨の模様!」と声をかけると、舟から「風が吹いても流れんように」と粋な返事。感心した二人でしたが清八は「お前のかみさんにはとても言えんだろう」と言います。そこで喜六は家に帰ると、押入れにあった汚れた錨模様の浴衣を女房に着せ、舟のかわりに盥(たらい)の中に座らせ、天窓の上から「さても汚い錨の模様!」と声をかけました。すると女房が一言「質に置いても流れんように」。
「米揚げ笊」
仕事もせずにブラブラしている頼りない男が、丼池の甚兵衛の紹介で天満源蔵町の笊屋、十兵衛に雇われ、笊売りを始めます。けれど生来の気質もあって、なかなか思うように商売することができません。そんなある日、「大マメ、中マメ、小マメ、米揚げ笊」という売り言葉が米相場師の主人に気に入られ、商売がトントン拍子に進んでいきます。ところが・・・。」。
「米揚げ笊(いかき)」とは研いだを水から揚げ、水切りに使うザルこと。米の相場師は、絶対に“下げる”という言葉を使わないので、“米をあげる”という男の言葉に気分をよくしたのです。ゲンを意識する商人と笊売りとの掛け合いが楽しい噺ですね。
米相場は大名家の浮き沈みにかかわり、値段の上下に一喜一憂しました。相場師は一夜にして大金持ちになることもあれば、逆に大損してしまうこともある。そこには船場の商人とは違った男伊達、豪快な気質があったといわれています。そういえば、あの淀屋橋や常安橋を架橋した淀屋常安もこの時代の豪商。彼らのような人のことを、本当のお金持ちというのかもしれません?!
「天下の貨七分は浪華にあり、浪華の貨七分は舟中にあり」と謳われた当時の大阪。天満青物市場や堂島米市場が川沿いにあったことは、ヒト・モノ・カネが集まる経済の中心・大阪で水運が大きな役割を果たしていたことを物語っています。実際に歩いて、それを肌で感じた今回の散策は、まるで江戸時代の中之島を歩いているような気分になった散策でもありました。
浪花なんでも地名ばなし/桂米乃助 著/コア企画出版
米朝ばなし 上方落語地図/桂米朝 著/毎日新聞社
上方落語/笑福亭松鶴 著/講談社出版研究所