本講では、中之島にゆかりのある文学を取り上げます。今も昔も人々が行き交う中之島。作家たちが目にした中之島の風景は、作品にどう反映されたのでしょうか。
②水上滝太郎「大阪の宿」文学碑
③三好達治「乳母車」歌碑
④宮本輝「泥の河」より~端建蔵橋~
天満橋から綱島方面をのぞむ
(1)八百八橋、悲恋の道行~近松門左衛門「心中天の網島」
江戸時代から商都大阪の象徴だった橋は、人々の生活と切っても切り離せないものでした。元禄時代の浄瑠璃作家・近松門左衛門の作品にも中之島界隈の橋がしばしば登場します。
世話浄瑠璃の最高傑作とされる近松の代表作『心中天の網島』の主人公、大坂天満の紙屋主人・治兵衛と曾根崎新地の紀伊国屋の遊女・小春は、添い遂げられないならばと覚悟を決め、陰暦十月、十五夜の月明かりの下、体になじんだ橋をたどりながら死に場所を求めてさまよいます。
中之島の遊歩道のほとりに建つ
「乳母車」歌碑
その昔菅丞相(かんしょうじょう)と 申せし時
筑紫へ流され 給ひしに 君を慕ひて 大宰府へ
たった一飛 梅田橋 跡追ひ松の 緑橋
別れを嘆き 悲しみて 後に焦がるる 桜橋」
大江橋
梅田橋を渡って、緑橋、桜橋、蜆橋、大江橋から天神橋。治兵衛が通い慣れた天神橋のすぐ近くには、治兵衛の家があるので背を向けて橋を渡り、天満橋、京橋などを通って、最後に網島・大長寺(現在の JR 大阪城北詰駅付近、藤田美術館の辺り)にたどり着き、ここを心中場所と定めます。
「じいとばばとの 末までも まめで添はんと 契りしに
丸三年も 馴染みまで この災難に 大江橋」
「南へ渡る 橋柱 数も限らぬ家々を
いかに名付けて 八軒屋 誰と伏見の 下り船
着かぬ内にと 道急ぐ この世を捨てゝ
行く身には 聞くも恐ろし 天満橋」
以上「心中天の網島」下之巻 名残の橋づくし
物語のクライマックス、二人の死の逃避行を独特のリズムで表現した「名残の橋づくし」。”災難に大(=遭)江橋””恐ろし天満(=魔)橋”など、橋の名前に二人の心情を掛け合わせながら綴られた名文です。
水上滝太郎の文学碑
(2)東京人が見た中之島の四季と人間~水上滝太郎「大阪の宿」
「夥しい煤煙の為めに、年中どんよりした感じのする大阪の空も、
初夏の頃は藍の色を濃くして、浮雲も白く光り始めた。
泥臭い水ではあるが、その空の色をありありと映す川は、水嵩
(かさ)も増して、踊るようなさざなみを立てゝ流れて居る。」
水上滝太郎の代表作「大阪の宿」の冒頭は、土佐堀の風景描写から始まります。小説「大阪」の続編のような構成をとった本作は、大正末期の大阪・土佐堀川のほとりにあった旅館「酔月」を舞台に、東京育ちの主人公とナニワ気質の登場人物の奇妙な人間模様を、季節の移り変わりとともに淡々と描いた長編小説です。
文学碑が建つ場所から見た土佐堀川の夕景
大阪勤務となった東京・山の手生まれのサラリーマン作家。正義感が強く、鋭い批判精神と温かい心情をもつ主人公・三田は、まさに作者自身の姿でもありました。彼が止宿したのは「照月」という旅館。現在、土佐堀川に架けられた肥後橋近くの遊歩道には、水上滝太郎の文学碑が建てられ、このような言葉が刻まれています。「三田は変に寂しかった。欄干(てすり)に近く遥々と見渡される澄み渡った星空の下を、静かに下る川船の艪(ろ)の音が、ぎいと冴えて聞えて消えて行く。秋の感じが深かった。
かつては川で小舟が行き来したのでしょう。土佐堀の水も澄んで日ごと薄くなる西日、縁側のガラス戸をゆする木枯らしに、見ているだけで底冷えがする川、造幣局の桜、ぬかるみ始めた水にぽっかりと浮かぶ夫婦の亀。中之島界隈のいきいきとした風景が登場する「大阪の宿」は、夏で始まり秋に終わります。
(3)永遠の郷愁と母への慕情~三好達治「乳母車」
昭和期を代表する叙情詩人の一人、三好達治。親しみやすい詩をかき続けた彼は、1900(明治 33)年に生まれ、青年時代まで大阪で過ごしました。詩壇へのデビュー作「乳母車」を刻んだ詩碑が、中之島図書館そばの遊歩道沿いに建っています。
母よ――
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花いろのもののふるなり
はてしなき並樹のかげを
そうそうと風のふくなり
(中略)
母よ 私は知つてゐる
この道は遠く遠くはてしない道
この詩は、1931(昭和 6)年に発表された処女詩集「測量船」に収められたものです。自らを幼子に、人生を道に見立て、永遠の郷愁と母への果てしない慕情を謳いあげています。蛇足ですが、若い頃の達治はよく中之島図書館に通っていたそうです。詩碑がこの場所に建てられたのは、そんなエピソードが関係しているからかもしれません。
※以前、中之島公会堂と美術館の向かいにある中之島公園内に建てられていたこの碑は、中之島新線の工事に伴い、上記の位置に移設されています(平成 18 年 11 月現在)。
(4)少年が見た大人の世界~宮本輝「泥の河」
「堂島川と土佐堀川がひとつになり、安治川と名を変えて大阪湾の一角に注ぎ込んでいく。その川と川がまじわる所に三つの橋が架かっていた。昭和橋と端建蔵橋、それに舟津橋である。」
宮本輝のデビュー作『泥の河』はこのような書き出しで始まります。中之島下流にある 3 つの橋と 2 つの川の位置関係は今も変わらぬままですが、それ以外は随分変わりました。主人公の両親が営む「やなぎ食堂」があった場所は、
現在、阪神高速道路の入口となり、川べりにはたくさんの倉庫が並んでいます。
舞台は昭和 30 年、戦後のまだ貧しい時代。市電の轟音、三輪自動車の排気音、ポンポン船の音。主人公の少年には、幼少時から小学生まで端建蔵橋の川辺で過ごした作者の思い出が映し出されているといわれています。
近所に住む一家との出会いと別れを主軸に、一人の少年の目を通して見た大人の世界は、時として生きることの厳しさを少年に突きつけます。ノスタルジックな哀愁を帯びながらも強烈な大阪の原風景となって読者に語りかけてくる物語です。
「大阪の文学(古典篇)」(大阪府教育センター)
「大阪の文学(近現代篇)」(大阪府教育センター)
「大阪 名作の泉」永田照海(浪速社)
「大阪文学地図」東秀三(編集工房ノア)
「日本の古典 19 近松門左衛門」(河出書房新社)
「大阪の宿」水上滝太郎(講談社文芸文庫)
「測量船」三好達治(講談社文芸文庫)
「蛍川・泥の河」宮本輝(新潮社)