今回は、商都大阪の中心・淀屋橋の東南に位置し、激動の幕末期を揺るがす原動力のひとつとなった「適塾」とその周辺をご紹介します。
①適塾(てきじゅく)
②史跡公園(しせきこうえん)
③除痘館跡(じょとうかんあと)
④懐徳堂跡(かいとくどうあと)
(1)適塾
1838(天保9)年に緒方洪庵が創設した蘭学塾。全国から塾生が集まり、談論風発の気風はその後の明治維新の潮流のなかで多くの先覚者を輩出しました。建物内では、緒方洪庵とその門下生に関する資料を展示し、塾生が寝起きした大部屋や、ヅーフ辞書(蘭書の会読に使用した蘭和辞書)が置かれた部屋などを見学することができます。
当時の適塾周辺は、薬問屋が集まる道修町が近くにあったため、薬の購入や医薬学に関連した情報収集は容易にできたようです。塾生たちの勉強ぶりは凄まじく、福沢諭吉は自伝の中で「凡そ勉強ということについてはこのうえにしようもないほどに勉強した」と述懐しているほど。また食生活では、粗食を主とした塾生たちが、天満橋や天神橋に赴いては売れ残りの安価な魚を買い求め、壊れた机をまな板に刺身のようなものを作って食べていたというユニークなエピソードも残されています。
洪庵不在の時期も義弟や子息、門下生達は塾を守り、さらに分塾をするほどに発展しましたが、明治新政府の教育制度の整備と共に発展解消し、大阪医学校、府立医科大学、さらには大阪大学へと発展、今日に至っています。
【 緒方洪庵(1810~1863)】
文化7(1810)年、備中足守藩(岡山)生まれ。文政9(1826)年大坂・中天游(なかてんゆう)の塾「思々斎塾」で西洋医学の基礎を学んだ。天保7(1836)年、長崎でオランダ人医師ニーマンのもとで医学を学び、2年後に帰阪。大阪瓦町で医業の傍ら「適々斎塾(適塾)」を開塾。7年後の1845(弘化2)年には過書町(現在の適塾)の町家を購入・移転。ここを拠点に日本最初の病理学書「病学通論」、コレラの治療・予防法を書いた「虎狼痢治準」などを著わし、道修町に除痘館を設けて種痘事業の発展に尽くすなど多大な業績を残した。文久2(1862)年、幕府の強い要望で、幕府の奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に召されたが、翌文久3(1863)年死去。大阪市北区の竜海寺に遺髪が埋葬されている。
高潔な人柄と時代への卓越した見識を持った緒方洪庵は、蘭学者・医学者であると同時に、優れた教育者でもありました。適塾には入門者が日本全土から集まり、その数は千人にものぼったそうです。特に佐賀・筑前・越前・土佐・宇和島・足守の各藩などは、藩主の命によって入門者を送ってくるほどに適塾の評価は高いものでした。
門下生には、明治維新という激動の時代に身を捧げた大村益次郎や橋本左内、また慶応義塾を創立し、教育の著作活動を通じて明治の日本人の意識の近代化に貢献した福沢諭吉もいました。内務省の初代衛生局長として日本の衛生行政を確立した長与専斎、戊辰戦争で敗れた大鳥圭介や高松凌雲、日本赤十字社の初代総裁、佐野常民も適塾出身。漫画家・手塚治虫の曽祖父にあたる手塚良仙も門下生の一人でした。
※( )内は20人以上の団体料金
※学生=大学生、高校生またはこれらに準ずるもの、生徒=中学生、小学生
史跡・重要文化財に指定されている適塾は、現在のオフィス街に江戸時代の町家の面影を留めているだけでなく、日本における蘭学塾の唯一の遺構です。適塾の東西には史跡公園が設けられ、西側の緑地には読書にふける洪庵の青銅の像が静かに座しています。
緒方洪庵は、適塾で塾生に蘭学を教える傍ら、適塾の裏手にあるこの場所に除痘館を設立しました。除痘館では死亡率が二割を超える恐ろしい伝染病であった天然痘から子どもたちを守るため、イギリスのジェンナーによって開発された牛の痘苗による予防接種活動を行いました。これは日本における予防医学の原点ともいえるもので、洪庵亡き後も受け継がれ、明治維新以後、公共事業として引き継がれるまで続きました。現在、緒方洪庵のレリーフとともに除痘館の説明が記された銘板がビルの壁に埋め込まれています。
懐徳堂は、適塾に先駆けること約100年の享保9(1724)年、大阪の町人によってその子弟教育のために創設された学問所です。 懐徳堂の学問は、朱子学を主としつつ諸学の長所を柔軟に取り入れる点に特色がありました。塾生は武士から庶民まで幅広く、席順も身分に関係なく、商人という立場も考慮されたため遅刻・早退も自由でした。廃校となる明治2(1869)年までの約150年間続き、五井蘭州、中井竹山といった師のもと、富永仲基、山片蟠桃などの優れた学者を輩出しました。