中之島歴史寫眞館|明治 天満橋1885年(明治18年)明治⼤洪⽔により、淀川の堤防が次々と決壊。⼤阪市内も⼀部⾼台地 域を除くほとんどの低地部が浸水するなどの大被害を出した。(大阪市立図書館所蔵)天神橋1885年(明治18年)明治⼤洪⽔により、流失したが1888年(明治21年)鉄橋に架け換えられた。江⼾時代には、天満橋・難波橋とともに浪華三⼤橋と呼ばれ、⼤坂の重要な 橋として公儀橋(こうぎばし)に指定。⽊橋だった頃の天神橋は三⼤橋中最⻑で(233.4m)。 天神祭の地⾞が天神橋から落ちる事故により、「てんじんばぁしゃ〜⻑いなぁ、落ちたらこわいなぁ」と、わらべ歌で唄われていた。(大阪市立図書館所蔵)竣工セル難波橋竣工後の真っ白なライオン像。天岡均一の製作によるもので、像は2対あり、口元を見ると、左側が口を開く阿形像、右側が口を閉じる吽形像と、狛犬のように「阿(あ)」と「吽(うん)」になっている。難波橋も元は木橋だったが、1912(明治45)年、鉄筋コンクリートアーチ橋が架けられた。(大阪府立中之島図書館所蔵)上より見たる難波橋附近現在の大阪取引所から北西を見たもの。「健脳丸」の広告の後ろに見えるのは大阪ホテル。(大阪府立中之島図書館所蔵)大阪ホテル1881(明治14)年、草野丈吉が中之島に「自由亭ホテル」を開業。1895(明治28)年、洋風建築に改築し、「大阪ホテル」と改称。明治・大正時代において、大阪の最高級の格式を誇るホテルだった。現在、その跡地に大阪市立東洋陶磁美術館が建っている。(大阪市立図書館所蔵)大阪名所中之島公園大阪府立中之島図書館(旧称、大阪図書館→大阪府立図書館)は、1904(明治37)年、住友財閥の住友吉左衛門の寄付によって完成。ルネッサンス様式で、玄関にはコリント式円柱とペディメント(破風)をもつ。右側に配置された1903(明治36)年建立の太閤秀吉の銅像は、水不足となって使用されなくなった噴水を利用したもの。2007(平成19)年、大阪城公園内の豊國神社に再建。(大阪府立中之島図書館所蔵)(大阪百景)中之島豊公銅像ト圖書館及戦利砲⼤阪府⽴中之島図書館(当時⼤阪図書館)の正⾯に、豊⾂秀吉像と⽇露戦争の戦利品ロシア軍が使⽤した要塞砲が設置されている。(大阪府立中之島図書館所蔵)肥後橋⼟佐堀川に架かる肥後橋の上を⾛⾏する市電南北線の様⼦。橋の北詰の中之島に肥後熊本藩の蔵屋敷があったことが橋名の由来。橋の右側に⾒える建物は、⼤阪中央郵便局。(大阪市立図書館所蔵)渡辺橋堂島川に架かる渡辺橋の上を⾛⾏する市電南北線。平安時代頃は、現在の御堂筋あたりまでが海岸線で、この一帯が「渡辺の津」と呼ばれたことが橋名の由来。(大阪市立図書館所蔵)肥後橋南詰加島銀⾏(現大同生命)加島銀⾏は、江⼾時代より両替商・加島屋を営む豪商広岡家により、明治21年11⽉創⽴。⼤阪の有⼒銀⾏として近代⼤阪の発展に寄与、昭和初期に整理された。写真の本店は広 岡家の本家敷地にあり、1922(⼤正11)年ビルに建て替えられた。(大阪市立図書館所蔵)堂島米穀物取引所大江橋と渡辺橋の間の堂島浜は堂島米穀取引所を中心に米仲買人の家が建ち並ぶ「米の街」であった。(大阪市立図書館所蔵)蛸の松初の蛸の松は、堂島川の左岸・現在の⽥蓑橋南詰の下流側、⽟江橋との間に位置していた。江⼾時代、諸国の⼤名の蔵屋敷が⽴ち並び、その前には、各藩⾃慢の松が植えられていたが、その 中でもとりわけ⽴派だといわれたのが、慶⻑年間(1596〜1615)に時の広島藩主、福島正則が植えたとされる⿊松。枝ぶりが蛸の泳ぐ姿に似ていたことから、『蛸の松』として広く⼈々に愛された。(大阪市立図書館所蔵)土佐堀川と朝日新聞大阪本社の社屋1885年(明治18年)6月24日、旧宇和島藩蔵屋敷を改装、社屋にして移転した。以降1916年(大正5年)の新築まで朝日新聞大阪本社として機能した。左端が秋月橋、白壁が本社の長屋門、右端は旅館「西照庵」。(株式会社朝日新聞社所蔵)