江戸時代前期、大坂を代表する豪商に淀屋常安がいた。本名を岡本常安といい、出身地は山城国岡本荘。岡本荘の場所は諸説あるが、枚方の岡、三矢に該当するらしく、旧枚方宿の辺りがそれに当たる。
文禄元年(1592)、秀吉が伏見城を築城する際、常安は工事の一部を請け負う機会を得ている。彼は、土木の技に秀でており、当時は土木建設業に従事していたようだ。文禄5年(1596)、秀吉は諸大名に淀川の築堤を命じた。前年に発生した淀川の氾濫がきっかけであり、かなりの難工事が予想されたが、常安は自ら願ってそれを引き受けたという。それが文禄堤と呼ばれる堤防で、上を京街道が通り、京都と大坂を安定して結ぶ交通路になったのだ。同年7月13日、畿内を巨大地震が襲う。いわゆる慶長伏見地震だ。この地震で伏見城天守は倒壊、大坂や堺などの家々も大きな被害を受けた。悪いことは続くもので、台風の直撃を受け淀川が決壊。常安は私財をすべてなげうって復旧作業を慣行、秀吉から労いと金銀、褒商品を与えられたという。これらの天変地異を祓う為に元号が文禄から慶長へ変更された。
常安は淀川の築堤工事完成後に大坂へ進出する。慶長19年(1614)、大坂冬の陣が起こるが、大坂商人にとって、豊臣方につくか徳川方につくか判断が難しいところであった。この時の常安は、徳川家康に茶臼山、秀忠には岡山にそれぞれ本陣を作って献上している。常安がどのような状況下でその判断を下したのか、心の奥底まではわからないが、先を見通す力があったのだろう。徳川方に付いた豪商豪農は、江戸時代初期において特権商人として大いに栄えることになるのだ。
徳川の時代に入り、大坂の陣で焼け野原となった町の復興が始まっていく。中断していた道頓堀川の開削が元和元年(1615)に完成し、元和3年には京町堀川、江戸堀川が完成する。堀川ができると、荷船が市中まで入ってくるようになり、町はどんどん活気づいていった。常安が屋敷前を流れる土佐堀川の対岸にある中州に目を付けたのもこの頃である。当時の中之島は、葦や雑木が繁り、大雨が降ると川に沈んでしまうような不安定な土地で、一部では耕作も行われていたようだ。堂島川や曽根崎川の名はまだなく、土砂が堆積し水量も少なかったと思われ、川が安定して流れていたのは南側の土佐堀川だけだったようである。中之島の開発は決して簡単ではなかったが、常安は願い出て、この土地を常安請地として開発を進め、元和5年、開発工事が竣工する。こうして現在の中之島の基盤が誕生したのである。
常安はその功績を認められ、邸地二町歩を賜り、いつしかそこを常安町と呼ぶようになり、幕府の直轄領となった中之島には諸藩の蔵屋敷が建ち並んでいくことになる。土佐堀川に橋を架けたのは二代目淀屋言當で、淀屋の橋がいつしか淀屋橋と呼ばれるようになった。その後、淀屋の繁栄は長く続かなかったが、現在の土佐堀川に架かる淀屋橋と常安橋が、その名をとどめている。
(2018年3月/※画像はイメージです)
新之介プロフィール
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