2015年夏~2016年春までNHKで放送された連続テレビ小説「あさが来た」。そのヒロインである「あさ」のモデルは、原案本となる「小説 土佐堀川」の主人公であり、実在した女性実業家「広岡浅子」とされています。土佐堀川周辺の中之島・堂島界隈は、かつて各藩の蔵屋敷が立ち並び、各地の米や産物が集まる物流の中心地であると同時に、学問の地としても賑わっていました。広岡浅子の嫁ぎ先である両替商「加島屋(かじまや)」がこの地にあったことで、彼女のその後の人生に大きな影響を与えたと言われています。今回の中之島散策では、「あさ」こと「広岡浅子」の、そのゆかりとなるスポットを歩いてみました。
まず訪れたのは、肥後橋のたもとにある「大同生命大阪本社ビル」。土佐堀川が目の前に流れるこの地は、もともと、広岡浅子の嫁ぎ先である「加島屋」が店を構えていた場所です。加島屋の目と鼻の先の堂島では、「米市場」が立ち、小説でもドラマでも、浅子が商いを意識するきっかけとなった風景として描かれています。
17歳(数え年。以下同じ)で加島屋に嫁いだものの、のんびりとした家風に馴染めず、早々に商いの行く末に不安を感じた広岡浅子は、自ら未来を切り拓くべく、積極的に経営に関わり、商売を立て直そうとします。当時は、女性は学問も仕事も不要とされていた時代。「女だてらに」と非難を受けながらも、炭鉱業、銀行業など次々に新規事業に乗り出し、困難と向き合いながらもやがて事業を軌道に乗せていきます。
大同生命は、1902年(明治35年に)に広岡浅子らが設立した会社です。浅子自身が健康を害したことで、保険の必要性を感じての事業参入でした。
同社では、4年前から、創業110年を記念した特別展示を開催。自社で所有する加島屋の経営や、当時の日本経済にまつわる古文書を大阪大学経済学研究科に寄託し、調査・研究をすすめ、その成果を展示・発表していたのですが、「あさが来た」が放送された2015年夏以降、にわかに来場者が増え、それまで1日数10人だった来訪者が、日に500~600人以上訪れるようになったそうです。
広岡浅子にまつわる展示物を増やしたり、同社オリジナルの広岡浅子の生涯を描いた短編DVDを上映したりと、ドラマや原案本を知らない人にとっても、わかりやすく充実した内容となっています。「広岡浅子ゆかりマップ」をはじめ、豊富な資料もいただけるので、まずはこちらに立ち寄ってから、他のスポットに行くのもおすすめです。
ちなみに、展示会場となっているメモリアルホールは、浅子の娘婿の妹の夫であるヴォーリズが設計した旧肥後橋本社ビルの内外装の一部を用い、当時の様子を復元・再生したものです。柱の凝ったレリーフや床に埋め込まれた大理石の模様なども見応えがありますよ。
休館日:日・祝日、平成28年4月22日(金) ※諸事情により、左記以外の日程でも臨時休館する場合があります。
※月曜(祝日を除く)は団体貸切日(要事前予約)となります。
※2016年9月30日まで公開予定。
〒550-0002 大阪市西区江戸堀1丁目2番1号
地下鉄御堂筋線「淀屋橋駅」下車 徒歩5分
京阪電鉄中之島線「渡辺橋駅」下車 徒歩5分
※駐車場はございません。会場へお越しの際は公共の交通機関をご利用ください。
この日も、大阪取引所の前に、五代様に焦がれるマダムたちがカメラ片手に訪れ、銅像(台座もいれると全長7.8メートル!)に向かって熱心にシャッターを切っておられました。大阪取引所は、外観だけでなく、建物の中も一部見学可能です。展示物の中には、五代友厚や浅子の夫である広岡信五郎の名前を記載した貴重な資料なども展示してありますので是非ご覧くださいね。(学生さんが経済や市場についてレクチャーを受けたりすることも出来るそうなので、事前にスケジュールをご確認のうえ、お訪ねください。)
ちなみに信五郎は、大阪株式取引所の肝煎(きもいり。現在の取締役)として、約20年間ほど就任していたそうです。ドラマでも原案本でもどちらかといえばふんわりとした優男として描かれていますが、実際は、そこまで呑気な方ではなかったのかもしれませんね。
9:00~16:30(最終受付時間16:00)
※団体見学についてはお問い合わせください。
※取引所専用エレベーターを利用し、4階受付よりご入館ください。
※駐車場はございませんので、公共の交通機関をご利用ください。
◆広岡浅子が晩年洗礼を受けた「日本基督教団大阪教会」
ドラマや原案本では描写されていませんが、広岡浅子は晩年、江戸堀にある大阪最古のプロテスタントの教会「日本基督教団大阪教会」にて洗礼を受けました。1911年(明治44年)、浅子63歳の時です。
クリスチャンとなってからは、布教活動に邁進したと言われています。登録有形文化財である現在の大阪教会の建物は、ヴォーリズの設計によるもので、1922年(大正11年)に竣工しました。
残念ながら、教会が完成する3年前、1919年(大正8年)に浅子は亡くなりましたが、大阪教会には、その時の活動の記録が残されています。(内部の見学には、事前の問い合わせが必要。)
浅子の信条は「九転十起」。壁に当たっても這い上がり、そして、決して諦めることなく歩み続ける生き方が、キリスト教の教えと通ずるものがあったのかもしれません。
上記以外にも広岡浅子にゆかりのあるスポットが、中之島周辺にはたくさん点在しています。徒歩で十分見て回れる距離ですので、ぜひおでかけくださいね!
参考:中之島の歴史はこちら